早期退職さてどう生きてく?

仕事しか知らなかったアラ還お一人様、家事やUR生活と少しずつ成長中。鎌倉を中心に「アラ還の散歩と遠足」の様子はYoutubeやTwitterでも発信してます。

【鎌倉いいね】こんな素晴らしい青空の日には鎌倉さんぽ。今日はちょっと歴史的なさんぽで3つの幕府巡り。

空が青いなぁ。

本当に! こんな日は鎌倉歩かないでどうするよ。

と言うことで。本日もてくてく鎌倉を歩きました。

 

カレンダーの上では大型連休の中盤で平日ですが

毎日がゴールデンウィークの私には天気が良ければ

いざ鎌倉へ。

もっと早く家を出ようと思ったのに

ちょっとぐずぐずしてしまい

始点である若宮大路に着いたのは9時半。

すでに駅のあたりは

鬼のような人出。

 

今日はちょっと志向がありまして。

鎌倉時代の幕府跡を巡ります。

なので。

観光客の渦からは外れます。

実は鎌倉幕府、と言う幕府は存在しません。

3つの幕府があったと言うのが定説です(諸説あり)

 

時代通りに回れないのはご愛嬌。

▪️宇都宮辻子幕府跡

この一帯は、宇都(津)宮辻子幕府があったとされる地で、当時の執権北条泰時が移転したものです。幕府の変遷は、大蔵幕府【1180(治承4)年~1225(嘉禄元)年】▶▶宇都(津)宮辻子幕府【1225(嘉禄元)年~1236(嘉禎2)年】▶▶若宮大路幕府【1236(嘉禎2)年~1333(元弘3)年】となっていきます(鎌倉観光公式ガイドホームページより)

(Google mapsより)

閑静な住宅地の真ん中にあります。

っても。

住宅がずっと後なんですけど。

ここら辺は掘れば何か出そうな気がします。

そして次が3番目の幕府と言われている

▪️若宮大路幕府跡

小町2丁目の宇都宮稲荷から小路を八幡宮方面に300メートルほど道なりに行くと「若宮大路幕府旧蹟」と書かれた石碑があります。若宮大路幕府は、鎌倉時代の4代将軍藤原頼経から9代将軍守邦親王までの幕府滅亡まで、1世紀近くにわたり将軍の御所として存続しました。若宮大路幕府の位置については、鶴岡八幡宮側の横大路に面していたという説と、宇都宮辻子幕府と同じ場所で出入口が若宮大路に面していたという説があると言われています(同上)

これも。先の幕府とさほど離れていないところにあります。

各幕府の広さは

正確に残ってないそうですが

段葛の場所は変わっていないだろうから

案外こじんまりとしていたのでしょうか?

八幡様の方がうんと大きい気がするし。

そして。

頼朝が築いた最初の幕府がこちらです。

▪️大倉幕府跡

雪ノ下3丁目にある清泉小学校の側に「大蔵幕府跡」の石碑があります。大倉幕府跡の石碑は源頼朝の墓(西御門2)から少し金沢街道に向かって歩いた場所にあり、そこを中心に、東御門、西御門、金沢街道に囲まれた地域に、将軍御所、公文所(後の政所の一部局)、問注所など幕府の主要施設が置かれたと考えられています。大倉幕府跡は、現在の清泉小学校とその周辺の住宅街が所在地とされていますが、明確な範囲は確定していません。源頼朝は1180(治承4)年10月に鎌倉に入ると、大倉郷に御所を建てました。それ以降、源頼家、実朝と続き、1225(嘉禄元)年に源頼朝の妻・北条政子が亡くなり幕府が宇都宮辻子に移るまでの45年間、この地が鎌倉幕府の中心でした。ここが最初の御所で後に「大蔵幕府」と呼ばれるようになりました(同上)

大倉幕府の関する石碑は3つあり

西御門(幕府の西の門)、東御門(幕府の東の門)

そして大倉幕府の中心と思われる場所にそれぞれ石碑が立っています。

西御門は横浜国大附属小中学校のあたりで

東御門はそこから直線で進んだところにあります。

大倉幕府跡の位置が幕府の中央となると

おおよその大きさのイメージがつくかと思います。

こちらが大倉幕府跡の石碑です。

昭和の子供へ刷り込まれた内容は

1192年=いい国作ろう鎌倉幕府

ですが、今は教科書では1185年となっているそうですし

(源頼朝が、後白河法皇に守護と地頭設置を認めさせた1185年を、鎌倉幕府の成立とする説)

鎌倉幕府と一括りにするのも正確とは言えないわけです。

しかし。

誰か見たんかい?

 

ここら辺が歴史の面白いところ、ってとこですかね。

学者も世代交代すれば

色々な意見が出てきて、ちょっと変わっていく、と言う事で。

 

今日はちょっとだけ歴史っぽい内容でした。

ま、私が今日歩いたあたりを頼朝や政子もうろうろしていたんだろうな、と

思うとそれはそれで楽しいさんぽなのであります。